2012-02-20

Fuji Rock Festival T-shirt Tags 2011

 Tags for all the Fuji Rock official t-shirt


  Tags for all the Fuji Rock official t-shirt
designs for Fuji Rock official T-shirt tags


フジロックのオフィシャルグッズのTシャツについているタグ。ふだんあまり誰も気に留めないタグ。が、そんなディティールまできちんとこだわるスマッシュの担当者様のおかげで、毎年楽しくこの30mm x 25mmのキャンバスにいろいろと描いてます。
で、この年は何を描いたかというと、、
このタグ仕事の前にパプアニューギニアのガイドブックのデザインをしてました。そのガイドブックの素材写真にラバウルで毎年行われるマスクフェスティバルというお祭りの様子が、、、いろんな地域の部族がそれぞれの部族に伝わるシンシン(民族舞踊)をこれまたその部族特有のマスクをかぶりながら踊る。このマスクたちがどれもが強烈で、人の奥深くに眠っている太古からのリズムをドンドコ呼び起こしてくれそうなものばかり。
それらのマスクをポップにアレンジしてこの年のタグにしてみました。

と、いつも通りブログで作品を紹介。友人の訃報があってから、どうも心ここにあらず状態が続き、水の中にいる時のようなというか、外界と自分のあいだにうすい幕があったりするような、俯瞰的感覚があるが、どんな悲しいことがあっても世の中は動き続ける。会社もまわりも仕事も。
悲しみを無視したり、ごまかすわけではないが、日常のなかで、きちんとやるべきことをやらねば食べていけないのも事実。人それぞれの悲しいときの現実への対応の仕方はあるとおもうけど、僕の場合は、そのときそのときにしてる事に没頭すること。メールをうつときは100%メールに没頭して、スケッチしてるときはひいているその線に集中して、コーヒーのお湯を湧かすときはコーヒーのことだけを考え、走るときは足のうらに感じる地面だけに集中、その瞬間に没頭する。ヨガの根本である、be here now。そのうちに、悲しみの状態に慣れ、「不在」を受け入れ、前に進める。決して忘れるわけではなく、いないということを受け入れる。

小さいときに祖父と祖母が亡くなり、学生の時に父親が蒸発し、父親のように慕っていた叔父が亡くなり、育ての母さんが亡くなって、中学からの友人達が4人も病気や事故で亡くなっている。
そんなこんなで、周りの人が亡くなったり、いなくなったりという経験を何回かしているせいで、僕の死生観は少しドライで現実的で、死はいつでもどこにでもあるもの、と。(マスターとか、たくま、史朗や工藤、ムキマンとか幼なじみたちも多分そうだと思うけど。)
人は死ぬ。形あるものは壊れる。死や終があるからこそ生が尊い。
一見あたりまえに見えるけど、忘れがちです。朝出かけるときに「今日死ぬかも」とか思って出かける人はあまりいないと思うし、生きて帰ってくる前提で出勤するのが普通だと思う。そして、それを友人や家族にも期待する。職場で「今日もおつかれさま〜、明日もあなたが生きて無事出社できますように!」とは思わないはず。
が、親しい人や家族が急にいなくなる。
何人もの友人を亡くしている北海道からの友達たちは、「いつ死んでもおかしくない」を実感し、生きる大切さが身にしみてるのか、毎日を精一杯生きてる人たちがおおいいのかも。僕もやりたいことは片っ端からやる。
前も書いたが、死んだ誰々のためにとか死んだ何とかさんが喜ぶとか、そういう言い回しが僕は苦手です。死んだらおわり。もういません。なので、生きている間におもいっきり生きましょう。死んでから花をあげるよりも、生きている間に想いを伝える。あれを言っておけばよかったとか、もっと親孝行をすればよかったとか思わないように。
というスタンスで生きようと思っていたのに、やはり友人が亡くなると、いろんな事をおろそかにしている自分に気がつきます。おっさんにいいたかったこと、聞きたかった事たくさんあります。タイに訪ねてタイの何がそんなに気にいって住み着いたのか、おっさんの目からみたタイを案内してもらいたかったし。

いるのが当たり前。とつい無意識に思いがちだけど、こうやってここにいること、周りの人と繋がっているのが実はすごいこと。