idea sketch of a jewelry design"Three eyed claw"
久しぶりにブコウスキーの小説を読んだ。
10年に一回くらいのサイクルで読んでる「factotum」読む度にちがった味わい方ができて面白い。なんのしがらみもなくやりたい放題の主人公、チナスキー。芸術的なまでにしょうもない行動をたんたんと描いた物語とは呼べないような物語。
だけど読む度にガツンとパンチをもらったみたいに目が覚める小説。
一ヶ月に4冊くらい本を読むのであっというまに本棚から本が溢れます。なので読んだものはすぐブックオフへ持って行く。それに最近の小説はどんなに面白くても本棚にずっと置いて何年か後に読み直そうと思うものが少ないし。
とはいえ、保存しておきたい本にもたまに出会うので本棚の一列を「とっておきたい本」のスペースにしてますが、そこにあるのは昔の本ばかり。
ブコウスキーの本もそんな中の一冊。この永久保存版の本達は濃いものが多い。そしてエンターテイメント性がひくいにも関わらず何年かに一度読み直したくなる不思議な魅力があります。
そこでふと思う。
なんで最近の小説は保存する気にならないか?(もちろんたまに名作にも会いますが)
それは、読み手の能力が落ちてきているからではないか?
本屋で売れているトップ10の本を見てみるとわかりますが、どれも読み手の技量を必要としない物ばかり。
わかりやすく、至れり尽くせりなエンターテイメントで、「行間から想像する手間」がいらない小説や、崇高なテーマを「噛み砕いて、丁寧に、誰でも楽しくわかりやすく」考える手間を省いたハウツーものとか。
読んでるとものすごく楽しいけど後になにも残らないし、自分で咀嚼してないから消化もできなく血や肉にもならない。
もちろんそういうのもあっていいと思うけど、それだけになってしまうと悲しい。
本屋でトップ10を見る度にそう思う。
小説も映画も消費されるばかりで心に残るものが少なくなってきてますね。
映画も見てる人を飽きさせないようにカットが昔に比べて異常にスピーディーになってきてます。何秒かに一回カットが変わる。ひとカットを長回しできちんととるシーンは最近めっきりみなくなりました。それは作る側というよりも僕たち見る側の能力が落ちてきてるからなのでしょうね。読み手に合わせてわかりやすく、飽きさせないように。
作る側も、理解力&想像力の欠如したオーディエンスに向ってますますよりわかりやすく作らなければいけなくなり、それがさらに見る側の能力の低下に拍車をかける。
すごい連鎖だ。
ブコウスキーの本を久々に読んでそんなことを思ってました。
ちなみに読んだ人はわかると思いますがこの「Factotum」読む側の能力なんてなにもいらない低俗なパンクな小説です。ただ今の小説にはないざらざらした生のエネルギーがある。「粗にして野だが」「卑」もあるよ!みたいな。